おはようございます。
名刺は小さいので載せる情報は厳選している
新潟の魔法の名刺屋です。
(泣く泣くボツにしてるネタもいっぱいあります^^)
さて本題。
長野県松本市の塗装職人、原田さん取材レポート。本日は第2話になります。
> お家の塗替え専門
> 美しい仕上りが看板
> 株式会社 共立塗装(長野県松本市)
> https://kyoritsutosou.com
それでは早速どうぞ~☆
わたし:
はらださん、はらださん、
原田さんは共立さんの二代目さんだとお聞きしましたが、すんなり跡を継がれた感じですか?
原田さん:
いや~、それがそうでもないんです(笑)
小さい頃から絵を描いたりするのは好きで美術の成績もずっと良かったものですから、高校卒業後はそっち系に進学したいなと思ってたのですが、塗装屋さんを継ごうとは考えてなかったですね。
ですが、当時の高校の先生に『お前は無理』と断言されてしまいまして、じゃぁどうしようかと。そんな時に母親が大阪の辻調理師専門学校を勧めてくれまして、料理に興味があったワケじゃないんだけど他にやりたい事もないしと思って辻に入学したんです。
辻調理師専門学校ご存知ですか?
料理の東大と言われてまして、入学した生徒の半数が脱落しちゃうような厳しい専門学校なんですよ。僕はそこで調理師の資格を取って卒業しました。新聞紙が透けて見えるくらい薄く大根のかつらむきが出来ますよ(笑)
わたし:
おぉ、意外な特技。原田さんは器用な方なのですね☆
それじゃ最初は料理人さんに?
原田さん:
そう思って最初はホテルに就職したんです。厨房ですね。
そしたら物凄い世界でして、先輩からは蹴られるわ、フライパンで思い切り頭を叩かれるわ、包丁は投げられるわで身の危険を感じて3ヶ月で退職してしまいました(汗)
厨房の中って外からは見えませんでしょ、なのでそういう事が横行している閉鎖的な世界だったんです。当時はね。30年前の話ですよ。今は流石に改善されてると思いますが…。
それで、とりあえず親父の仕事でも手伝うか? と思って共立塗装に入りました。
わたし:
凄いエピソードですね(汗)
ではそこから今に至るまでずっと共立塗装というワケですね?
原田さん:
いえ、それも違うんです(笑)
親父の下で働き始めて1ヶ月くらい経った時に『親子でやると甘えが出るから』という事で、僕は松本市内の大手塗装会社さんに修行に出されました。
5年くらいの約束で入ったのですが、そこの社長さんから気に入られてしまいましてなんだかんだで16年くらい居ました。
こんな事を言うとまた自慢みたいで嫌なのですが、僕はそこの会社さんのエースみたいな感じになってしまって、社長さんが『辞めないでくれ~』って中々僕を手放してくれなかったんですよね。
わたし:
さすが長野県1位の成績で一級技能士の資格を取られただけありますねぇ。
そしたら36歳くらいで実家の共立塗装さんに戻られたと?
原田さん:
そうです。でもその時にはもう親父は他界してしまっておりました(汗)
僕が大手塗装会社さんでお世話になってる14年目の時でしたね。
親父は僕と一緒にやるのを楽しみにしてくれていたのに、その約束が果たせなかったのは今でも心残りでして…。
共立塗装はその時に一旦廃業となりましたが、2年後に僕が戻って再び立ち上げ直したんです。僕は今年で48歳?なので、12~3年前の話かな。
わたし:
そうでしたか。
でも戻っても会社は無いのに、どうして戻られたのですか?
(共立塗装さんの事務所にて。水色の車は私のです。笑)
原田さん:
そのままにしておくのは親父に対して罰当たりなんじゃないかと。
せめて屋号は残そうと。せっかく親父が築き上げた会社ですからね。罪滅ぼし的な感じかな?
会社と言いましたけど法人化したのは2年前なんですけどね。
さっきも話しましたけど『お父さんに塗ってもらって19年経つけどまだこんなに綺麗だよ!』って嬉しそうに親父の話をして下さるOBのお客様が沢山いらっしゃるんですよ。
なので「社名を残すだけじゃなくて、親父が築き上げた信用?看板?を汚すような事だけは絶対にすまい」と心に決めて日々の塗装に取り組んでいますよ。
わたし:
いい話ですね~。
原田さんの技術者としての一流ぶりだけでなく、仕事に対する想いも素晴らしいです。
こういう話はぜひ沢山の人に知って欲しいですよね!
まぁそうは言うものの…
名刺の紙面は限られているので、その話は細かくまでは載せられませんが…(笑)
(次回いよいよ最終回^^)